香肌文庫 第109回 幸福の木
今まで考えたことも無かったのですが、習志野市に来て25年の歳月が経っていました。千葉市にある鍼灸学校に通うために住み始め、卒業して世田谷の鍼灸院や足立の医院などに就職したのですが、なぜかここから遥々と通いました。当時は独りで自由の身、同僚や上司からも引っ越しを勧められたのですが…。早朝に通勤して夜遅く寝に帰ってくるだけ、習志野に特別な思入れなんかありません。
香肌治療院を開業するにあたっては、大船、横浜、武蔵野、杉並、船橋…首都圏の至る所へ下見に行きました。朝から出かけて行って疲れ果て、夕方に津田沼駅に帰るとホッとする有様、意識してなかったけど第二の故郷になっていたのです。
開業当初は厳しいご意見も頂きました。「ここは目立たない」「二階は失敗だね」そんな時あるお客さんが言いました。「先生がこの場所を選んだわけじゃないよ、この場所が先生を呼んだんだよ」
この店舗には枯れて干からびた幸福の木が置き去りになっていました。捨てようとする私に家内が「念のため水あげてみたら？」と言いました。しばらく水をあげ続けていると徐々に息を吹き返し、緑の葉が蘇ったのです。今では秋になると甘い蜜を帯びた芳香な花まで咲かせてくれます。
香肌治療院は決して繁盛していたとは言えませんが、来てくれる方は優しくて気持ちの良い方ばかりで不思議でした。きっと幸福の木が呼んでくれていたのですね。
私は自分の意志で行動し、自分の力で何かをしていると思っていましたが、大きな自惚れでした。鍼を刺すツボだって患者さんの脈や皮膚が「ここ、ここだよ！」と導いてくれるから治療できるのです。「先生」に成らせて頂いてるのです。
私をこの場所へ呼んだのは間違いなく幸福の木でした。水が欲しかったんですね。香肌という名前も自分が考えて付けたつもりでしたが、芳香な花を咲かせるこの木のことだったのです。幸福の木はどこかへ旅をしたくなったのかなあ？
皆さんお世話になりました。この木を連れて故郷へ帰ります。いや、連れられて…
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第109回香肌文庫 2015.3.1
